話題のあの人が日経の読み方を語ります 日経私の読み方

SAKURAさんは、国内・パリ・ミラノでモデルとして雑誌・広告・ファッションショーで活躍、現在はファッショントレンドと絡めたリアルなビューティーを語れる希少なジャーナリストとしても活躍。数々の雑誌、ウェブでの執筆、テレビやトークショー、イベントへの出演などを通してビューティー&ライフスタイル情報を発信する傍ら、甲南女子大学で非常勤講師も務めるSAKURAさんに、これからの女性のリアル・ライフスタイルの視点から日経の読み方を語ってもらいます。

SAKURA モデル・ビューティージャーナリスト

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日経と“再会”するまでのパリ・ミラノでの紆余曲折

私と日本経済新聞は、子どものころから実家で定期購読していたこともあって、かなり長いお付き合いです。ただし私自身も未熟でしたから、昔の日経の内容は今よりずっと硬く感じて、その時々にたまたま読んだ記事の硬さが自分に受け入れられることもあれば、受け入れられないものもあるといった、気紛れな関係でした。いまだに熱心に読む記事の分野には若干の偏りがありますが、私が真面目に日経全体に目を通すようになったのは12~13年前、ビューティージャーナリストの仕事を始めた頃からでした。

そもそも私は今から二十数年前、モデルとしてスカウトされてファッション業界にデビューしました。広告にはたくさん出させていただいたのですが、やがて本場ヨーロッパで本格的なファッションモデルの仕事がしてみたいとの思いが強まり、スーツケースひとつでパリに渡りました。知り合い1人いるでもなく孤独で、語学も拙いながらも、片端からモデルエージェンシーに電話をかけ、オーディションに出かけ、やっとのことで事務所を決めるというタフな経験をしたお陰で、精神的にはかなりたくましくなれました。

2年半の間パリとミラノを行き来して、雑誌やファッションショーの仕事をしました。2年契約でベネトンのワールドワイドなキャンペーンを、当時東洋人ではただ1人でやらせていただき、ニューヨークのビルディング壁面用の巨大ポスターやショッピングバッグに私の顔の単独アップが印刷されたり、ジョルジオ・アルマーニとマーティン・スコセッシ監督とのコラボレーションビデオに出演し、アルマーニ邸内にしつらえられたファッションショー用ステージの傍らで、撮影中の3日間、毎日スコセッシ監督とランチをご一緒したり、といった経験もしました。

私がパリとミラノにいた頃、いわゆるスーパーモデルが黄金期を迎えようとしていました。サルコジ大統領夫人のカーラ・ブルー二や、クラウディア・シーファー、ナオミ・キャンベル、シンディ・クロフォード、ケイト・モスといった世界の美女たちと、仲間として何度か一緒に仕事をさせてもらい、おしゃべりしたことで、彼女たちの仕事振りや日常生活から多くのことを学べただけでなく、自分のこれからを考えるきっかけを得ることもできました。

ビューティージャーナリストへの転機が日経依存症への転機

パリ・ミラノでの生活で、私の人生に最も大きな影響を与えてくれたのは、当時一世を風靡しつつあったスーパーモデルたちの、人生に対するユニークで真摯な考え方でした。当時欧米のファッション界は大変に潤っていて華やかな時代であったにもかかわらず、彼女たちはそれに流されることなく、自分の人生ビジョン、人生設計について実にクリアに語ってくれました。

今はモデルをやっているけれど、将来は勉強して父親の弁護士事務所の後を継ぎたい。平凡な結婚をして古着屋を開きたい。日本でも女優を目指しているモデルは多いと思いますが、漠然とではなく非常に具体的にこんな女優になってこういう生活をしたい、とか。モデルとしてもまだまだ余裕が無かった私と同年輩の女子たちが、先々のことをはっきり口にしているのを聞いて、「ああ、私って何やっているんだろう」と考えるきっかけをもらいました。

そうして考えてみると、住む場所にかかわらずまだしばらくはモデルの仕事を続けるとしても、その次の仕事まで視野に入れるなら、「私がこれからいるべき場所は日本だ」という結論に達し、2年半で仕事の区切りがついたタイミングで帰国しました。ただでさえ難しいモデルの次の人生探しのために、情報収集をし、人脈のネットワークをつくり上げ、タフな交渉をしてやりたいことを実現していくためのコミュニケーションが完璧にできるのは日本語だからです。

近い将来、何かをやりたいと思って帰国したものの、しばらくは、プロのモデルを追求しながら、次に何が私にできるのであろうか?と、悶々としていた私の強い味方が日本経済新聞でした。今と比べれば、日経を読み込む真剣味も深さも全く足りませんでしたが、まだ目に見えぬ「何か」を探す者にとって、日経の記事のカバー分野の広さとバランス感覚はある種、救世主だったかな(笑)。

12年前、自分の経験を無理なく生かせるファッション業界の中で何かできないかと模索を続けていた私に、女性誌の編集長が声をかけてくださいました。「これからコスメティックという分野が流行する。コスメジャーナリストという肩書で連載を書いてみないか」。これがビューティージャーナリストという現在の私の職業への転機となりました。それは、これまで以上に日経を必要とする暮らしへの転機でもありました。